茶道体験 〜おもてなしの真髄に微タッチ〜



 書こう書こうと思っていて大分時間が経ってしまったネタのエントリー。GW最終日の日曜日に茶道の体験をしてきました。かねてからうちが茶道に興味があるとのたまっていたのを会社の先輩が拾ってくれて、ずっと習っている先生の下に招いていただいてしまいました。人生初の茶道体験。


 場所は上野寛永寺の子院にあたる泉龍院。足元の苔までよく手入れされた静かなお庭に通されて、風炉開きの茶事を体験してきました。


 風炉開きの茶事・・・お湯を沸かすために床で火を起こすのが茶事では必須なのですが、冬と夏で火の起こし方が異なります。冬は、半分の畳を開けたところにある「炉」に火をくべてそこでお湯を沸かす(半畳が炉になっていることを「炉が切ってある」とも言います)のに対して、夏は「風炉」という、ポータブルな鉄の囲炉裏のようなものでお湯を沸かします。おそらく部屋を温める必要性があるか否かで季節によって切り替えているのだと思いますが。風炉開きの茶事とは、冬から夏へ、炉から風炉へ切り替わるときの時節の茶事というわけです。


 お庭から亭主に招かれるところから、掛物・炭手前・香合の拝見、懐石、中立ちを挟んで、濃茶・薄茶と、10時から15時まで正午の茶事を一通り贅沢に体験させていただきました。静けさに満たされた床で一つ一つ丁寧に進んでいくお手前の音、お道具や掛物、お花の美しさや、懐石・主菓子の美味しさ、濃茶・薄茶の味わい深さなど、自分自身が目や耳、舌や手で体感することひとつひとつが初めての体験で心地よく(正座は正直しんどかった・・・)、時間があっという間に流れてしまったことが、なんだかとても不思議でした。

 
 が、何よりもその場が成り立つに至るまでに、ご亭主である裏千家・青沼宗明先生がいかに心を尽くしてくださったかが、「おもてなし」の何たるかを考えるとても良質な気づきをもたらしてくれたように思います。掛物の語句【光明】や主菓子のモチーフ【若鮎】など、今回のお茶席のコンセプトは、『時世を明るく照らし、こんな時代だからこそ若人に飛躍してほしい』という先生の願いが込められているわけです。相手に心地よく充実した時間を過ごしてもらうべく慮る一方で、ご自身がお客様や世に望むことをそこに喧嘩させることなく忍ばせる。


 茶道は、それ自体が『インスタレーション』であり、ものではなく動きが作品となる『パフォーミングアート』だと、体験する前まではオボロゲに思っていた自分ですが、それ以上にもっともっとそこには感情の交換があるというか、亭主のお点前の所作と、その裏側にあるお心遣いに、気持ちいい方へ連れて行かれたような、上手く言葉に昇華できない温かい気持ちがあって。「もてなされる喜び」とはこういうことかと、身体で触れることができました。


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 千宗屋著 【茶 -利休と今をつなぐ-】の中で著者と対談している内田樹氏が言っていた言葉ですが、

 
 「ものすごくキレイにカラダを使っている人をそばで見ていると、その体感に同期して、気持ちよくなるんです。自分の中の体感密度も一緒に高まって、カラダの内側で何かイベントが起こる。 〜中略〜 場を主催する力というか、私の身体のテンションの変化に合わせなさい、体温の変化、呼吸の変化、細胞の動きの全てに反応しなさい、というものすごい”指南力”が来たんです。体感の指南力の凄まじく強い人に網をかけられ、ひっぱられていかれるのって、とても気持ちいいものなんです。」 


 この内容が、少し分かった気がします。美しい所作を見ていると、理屈ではない体の反応が内側で起こって、気持ちがよくなる。そして自分の立ち居振る舞いにもそれが伝播する。そうやって主客一体となって茶事というひとつのインスタレーションを共に創っていくことが、お茶の真ん中の価値なんではないかと、生意気にも少し思ったのです。


 普段広告を作る身として、消費者やユーザーの気持ちをどこまで慮れるか、日頃から大変な気を配ってきたつもりでしたが、今回、【自分の意思も込めてこそおもてなし】【そこから初めて、主客一体の無二の場が立ち上がる】ということを体験できたことは、目からうろこでした。自分をこめる。おそらく、「素直であること」に尽きると思うんですけど、どんな状況でも自分の中の素直さに正直でいることは実はとても難しいんでしょうねえ。これからの大きな課題です。


 一切の面倒くさいことを茶席の外に置いてきてその場を存分に楽しみ、心を静かに出来た、とても贅沢な昼下がりでございました。茶道オススメ。自分は是非、また体験したいと思います。



茶―利休と今をつなぐ (新潮新書)

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