若冲の謹み



 風はつよけれど、とてもいい天気。上野の森まで行ってきました。
 お目当てはこれ↓



 すっげー混んでて、10分の入場規制



 中の写真は当然撮影できませんでありませんが、とても感じるところがありましたね。狩野永徳横山大観円山応挙など、江戸期の近代絵画がたっぷりと。大きな作品も多数展示されており、迫力がありました。

 でもやはり、際立っていたのは伊藤若冲

 
 動植綵絵 群鶏図



 動植綵絵 紅葉小禽図



 動植綵絵 老松白鳳図



 細部にわたる描きこみと、虚実織り交ざった色合い。鶏の脚のひだの一つ一つの彫りの深さにまで血流をこめる。特に老松白鳳図は空想の生き物を描いているにも関わらず、決して想像に筆を任せず、あくまでも理にかなった造形を形作っています。それを観て多くの人は、「まるで生きてるみたい」と感嘆していたわけですが。

 
 伊藤若冲は青物問屋の跡取り息子として江戸中期に生を受けます。いわば御曹司。大金持ちだったのですけど、彼は絵を描くこと以外になんら興味を示さず、商売にも熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯独身だったそうです。40歳で家督を弟に譲ると、85歳で逝去するまで、ただひたすらに絵を描き続けた、鬼才。

  
 彼の作風は、同じく展示されていた狩野永徳の唐獅子図屏風と比べれば分かりやすいです。



 唐獅子図屏風

 


 つまり、非常に実証主義的な立場から、実物写生を行っていたことがわかります。実物を如何に忠実に、理にかなった構造を捉えて描くか。それに腐心し続けた若冲なんだけど、つまり彼にとってそれが「美」の究極的な答えだったんじゃないかなとふと思いました。人はなぜ、絵を観たときに「まるで生きているようだ」と思うと、美しいと感じたり感動したりするか。それって結局、絵以前に、その生物そのものが美しいってことに気づかされるんじゃないかなと。普段、ちゃんと見ていないだけで、紅葉も、軍鶏も、びっくりするほど良くできていて、数学的に理にかなった構造になっています。それは、人間なんかが世の中に出てくるずーーっと前から彼らは存在したわけで、ましてや、絵に描かれる前から存在していた。それをそのまま写実することが、究極的に難しく、美しいっていうのが、若冲の答えだったんじゃないかなと、憶測してたわけさ。

 縁日で買ったカブトムシが動かなくなったので、父親に電池を求めた少年が出てくるようなこのご時勢ですが、自然に対する驕りは、どうか捨てないといけないよね。若冲は、きっととても、自然や生物に謙虚で慎み深かったのだと思います。リスペクトがあるから、なにもいらない。それはたとえ想像上の白鳳を描こうとも、自然や生命へのリスペクトの尊重があるから、「まるで生きているように」美しいと感じるんじゃなかろうか。生命は最高に美しいと。絵以前に、それは美しくあったのだよっと語りかけられている気がしましたね。


 西洋美術史で最初に実証主義から絵を描いたのはダヴィンチだとされています。「自分の芸術を真に理解できるのは数学者だけだ」と彼自身述べているように、当時それはとても斬新な画風だったようで、ダヴィンチは絵をより真実に近づけるために、馬の解剖から骨格や関節を理解したり、目の仕組みを研究することで眼球内で光が屈折し網膜に映りこむさまを描きこんだりしてたわけです。彼が実証主義の立場から批判した絵が下の絵なんですが、


 ボッティチェリ 「ヴィーナスの誕生



 水はこんな波を立てないし、木々はこんな葉のつけかたをしないし、花びらはこんな舞い方を絶対にしないと。ダヴィンチは彼以前の巨匠たちの自然を理解しようという姿勢のなさを強く批判し、神話のように人型の神々が世界を創造したとしか思えないことから起こる、自然に対する傲慢だとすら思っていたそうです。彼が書いたものにうつりこんでいる自然には、当時の人には気づきさえしないような細かい写実が行われていて、モナリザの背景の木々や川の流れすら、精密な観察から成り立っているようです。

 
レオナルド・ダヴィンチ 「モナリザ
 
 


 わっかるかなーー??笑



 若冲ダヴィンチはなんだか似ているような気がしますね。数学的・実証主義的な画風と、自然への敬意。後者は今日のボクの推測だけど。そうであってほしいなあと。今の日本人に足りない感性を、彼の絵からは感じました。何よりも、生命が美しい。今日の学び。生シャモを今度じっくり見てみたい笑


 で、デザインタイドにも言ったのですが、もう長くなったので今日はこの辺で。明日書きますねータイド。