行くぜ27年目!


 先週の日曜日で、26歳になりましたーぱちぱち☆ 月並みな感想ではありますが、子供の頃はすげー大人だって思っていた年齢だし、子供の頃どころか大学生のときくらいまでそうだった。実感がない。でもよく考えてみると、年齢による実感、なんていうものはそもそも動物には備わってないよね。「あーおれ生まれてから何年経ったワー」なんて人間しか数えてない。他の動物はなんつーかきっと、「去年よりめっちゃでかくなったわ身体!」とか「やべー最近すげー疲れやすい」とか、きっと身体から歳を推し量るしかないんじゃないかな。そう考えてみると、この歳らしさみたいなものは、きわめて社会的・外的要因によって、要請されてカタチ創られていると言える。


 26歳に要請される”26歳らしさ”ってなんでしょうね、っていうことを考えてみたいわけじゃないんです。大事なのは、「そんなものあんまり考えてもしょうがないよ」っていうこと。社会なり他者が自分に対していかに無責任に放言するかは社会人になってからよくわかったんです笑 だから、そんな見えない敵みたいなものを考えて生き方や価値観を決めるなんてもったいない。一方で、「期待」とか「好意」みたいなポジティブなものも他者は自分に寄せてくれるんだけど、それに応えるかどうかも、自分がそれに応えることによって気持ちよくなれるかどうか、でしかないと思うんだよね。「人様に迷惑をかけないように生きなさい」とか、「皆さんの期待や御厚意に応えるようにがんばりなさい」、っていうのも、なんつーか、社会的な役割における自分の置き方ですよね。幸か不幸か、うちの親はそんなこと全く言わない人でしたし、あんまりそういう回路が自分にはないとも思う。


 人間っていうのはとっても社会的な生物で、社会っていうのはそもそも【生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与え合ったりしている人々のまとまり。また、その人々の相互関係】っていう意味だったりするわけで、他者を介在してしか生きられない生き物なんです。それはおサルさんが木からサバンナに降り立って二足歩行を始めたときから、群れからはぐれる=即死だったときからずーっと変わってない。社会から逸脱することは、恐ろしいことだったんですよね。で、みんなコミュニケーションに苦しむし悩むし逃げられないし面倒くさい。でもだからこそ、【社会における自分】以前に、自分ってば何が気持ちいい人間なのかっていうのを、ちょっと孤独に考えてみるべきなんだと思う。”孤独”とか”沈黙”って、とっても大事で、それが見出しにくい世の中に確実になっていってる今こそ、みんな自分の心の声をもっと聞いてあげるべきなんだろうな。自分が何が嬉しい人なのか、分かっている人は、他者も関わっていて嬉しかったり楽しかったりするんだよ、ほんと。


 もちろん、自分がやりたいこと・気持ちいいと感じることは、これまで活かされてきた社会による要素が多分にあるので、人間は永遠に自分が帰属する社会からは逃れられないんだとは思う。だから、それを一旦認めたうえで、その上で孤独に、何がすき??って考えてみる。それを忘れない、そんな27年目で行こうと思うわけです。”26歳らしさ”なんてのは、自分が決めればいいし、歳なんて最近、聞かれないと考えなくなってきてるもんね。こういうことを書くとまた、「男はタイムリミットがなくていい」とか女性に言われそうなんですけど、しょうがないですよねそれも。そんな相対的な話をしたいわけじゃないんです。


 最近、いろいろな、人生の先輩が自分と同じ年頃のとき、何者をやっていたかを聞いたり読んだりする機会があるんだけどさ。ほんといろいろなんですよ。まだ何者でもなかったって人だってたくさん。でも共通しているのは、あるタイミングで、自分はきっとこういうことがしたくて、気持ちよくて、だからそのために頑張って年取っていこう、ってオボロゲに自覚するってことです。だから、あせらなくていいね。大事なのは、快楽主義であること。自分の快楽・気持ちよさとしっかり向き合っていること、それが一番だね。伊藤直樹さんの話、糸井重里さんの話、そのほか幸せに生きている先達の話のもろもろから最近感じることの垂れ流しでした。(5分で書いた笑)


 これからも変わらず、仲良く宜しくお願い致します。


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 お祝い!昼からシャンパンでしたー☆☆

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