尊敬と憧れは違う


 今日は覚書。普段から思いついたコトはすぐにエバーノートに書き溜めておいて、移動中にiPhoneでおさらいするようにしてるのですが、ここ最近の仕事ラッシュでふと思ったことなので。


 自分には尊敬できる人が山のようにいます。厳密には、人それぞれ尊敬できる『部分』があるといった感じでしょうか。自分が求める能力や人柄を持ち合わせている人や、能力としては特別なことではなくとも誰もやりたがらないようなことを率先して出来る人など。まあそれはそれは、山ほどいて、自分の理想としては誰に対しても尊敬できる『部分』を見出せるくらい寛容で泰然とした人間になりたいわけです。


 で、その「そういう人間になりたい」っていうのが、憧れなんでしょう。「アノ人のこういうところは本当に尊敬するけど、かといってあーなりたいかというとそれは別」っていう状態が、『尊敬しているが憧れは無い』ってことになるのかね。


 事実、「尊敬に値する」という表現があるとおり、尊敬の方がより『客観的』で『相対的』な言葉だと思います。値って、そういうことですもんね。尊敬っていう感情自体は、間違いなくその人の思いなんだけど、どこか世間的な感じがするんですね。逆に憧れって、『主観的』で『絶対的』な感じがする。誰になんと言われようと、私はアノ人のようになりたい。それはもう理屈じゃないんだよね。加えて、絶対的であるがゆえにこちらの方が、『抽象的』かつ『架空性が高い』んじゃなかろうか。子どもが「大きくなったらウルトラマンになる!」って言ってるのは、憧れだから成り立つんだよね。ウルトラマンを尊敬するっていうのは、まあ敢えてそのように表現する人もいるけども、あまりシックリくるもんじゃない。かつ、尊敬には『部分』が成り立つって書いたけど、憧れってあまり『部分』に対して抱く感情じゃないような気がします。その存在そのもの『すべて』が対象なような。


 と考えるに、自分自身の「憧れ」を実在の人物から探すのは中々難しいと思うのです。たとえば、「イチロー」とか「井上雄彦」とか、直接自分の人生と接点の無い人を憧れの対象と置く事は可能です。でも、今自分と直接つながってくれている人の中に、憧れの存在があるかどうかといわれれば、今の自分にそういう人はいない。「尊敬は出来るけど、この人のように生きたいわけではない」これが大半です。まあそもそも、憧れとは遠い存在であるっていう前提に立てば、そういうものなのかも知れませんが。

 
 確か、元ヤクルトの古田敦也氏が、「人それぞれ、運がめぐってくる回数や大きさは確かに違う。ただ、多かれ少なかれ必ずいい波は誰にだってやってくる。問題は、その波が自分に来ていることに気付けるかと、その波に乗るだけの準備が自分の中に持てているか。」って言ってたような気がするんですけど、『憧れ』の存在も、自分がそのように思えるだけの自分にその時なれているか、なのかも知れませんね。


 
 ということで、周りよりも結局は自分がんばれって思いなおして、今日も精進します。

p.s. ちなみにうちの憧れは、スナフキンかなあ笑 
誰かを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は、得られないんだ。」 これとか、至言だと思う。



古田式

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