生きて死ぬ智慧



 今更なんだけど、先週土曜日にいってきました。タダ券が手元にあったもんで。


 私事ではありますが、自分の通ってた中学は私立で、とてつもなくヘンは学校で。科目でいうところの”生物”にやたらと力を入れていたところで、フィールドスケッチに始まり、ショウジョウバエの染色体観察、ツユクサの気孔の開閉観察、ユリの花粉の浸透圧破裂実験、カエルの脚部筋肉の脊髄痙攣実験・・・ ここらへんにしときましょうかw 中学校の必修でそこまでやるか!っていうとこまでぶっこんだものばっかりで。今でもカエルの心臓を保存したときのホルマリンのにおいは鼻についちゃってます・・・思い出すなあ(しみじみ)


 で、医学と芸術展。そんな自分なので、骸骨とか筋肉とか血管とか、まったく抵抗はないどころか、仕組みが分かることにワクワクするくらいなもんで。面白かった。物事に対する”構造的理解”は、元をたどれば”体が痛い”っていう思いから始まっていて、体が痛かったりしんどかったりという、危急の事態をナントカするために、解剖学が発生したわけだね。そしてそこから”物事の因果・構造”を捉えるという概念が発達し、それを記録したり伝承するための手段として芸術が共に発展したんだと。


 身体に対して「科学的探求」と「美的探究」の両方が成されて今日に至るわけだけど、ダヴィンチしかり、それは密接不可分なのですよね。それはね、中学で学んだんですよ。どんなに文字で理屈を理解しても、スケッチが下手で、その構造を書き出せない人は、他人にそれを伝えられんのです。インプットとアウトプットは常に両輪で、それぞれを行き来しながら、一人の人の理解が深まったり、世の中レベルでの進歩があったり。


 写真禁止だったんだけど、印象に残ったのだけメモ丸写し。


【どこからでもない議論】 アルヴィン・ザウラ


 横10mくらいある黒い紙やすりに、白い砂を擦った後のようなものが満遍なくついている、ただそれだけのものなんですけど、その白い粉は頭蓋骨だと。このザウラっていう人が、実際の頭蓋骨を紙やすりに擦りつけ続けて出来上がったもので、そばのモニターでメイキングも流れていたんだけど・・・ 観ているだけで自分の頭がキシキシいうような、なんともいえない気持ちになりました。どんな人生を歩もうが、骨になり、物質として世界に溶けてなくなることを表現したと。自分と他人、自分と自然、自分と世界を隔てている境目ってなんなんだろうと、粉になってやすりにくっついている誰かの骨を見て、考えちゃいました。うーん、怖いけど、そういうものなんでしょう。


【ライフ・ビフォア・デス】 ヴァルター・シェルス


 顔のどアップの白黒写真で、老婆から赤ん坊まで、いろいろあったんですけど。穏やかな顔をしていたり、目を閉じていたり。実はこれらは、本人に許諾をとって撮影した、「死んだ直後の顔写真」だそうで。自分は人の死に顔をあまり見たことはないですけど、確かに、死んでるかどうかってホント紙一重で、もちろんある不可逆な境目をまたぐっていう意味では大事なんだけど、赤ん坊の顔とか見ているとね、わかんなくなってくる。そんな作品。



 他にもいろいろ面白いものはあったんですけど、いかんせん画が見せられないので、とりあえずいってみてください。ところどころグロいけど、まあまあ。老いること、死ぬこと、翻って生まれることなどなど、イロイロ考えさせてくれるいい展示でした。


 養老孟司の「人体を切り刻んでいくと、ある時を境に”名もない肉塊”としか定義づけられないものが出来上がる。今まで誰もその切り取り方をしたことがないモノだからか、あるいは言葉として定義づけた人が今までいなかったか。」って思い出しました。名をつけることは、そのものとそのものじゃないものの境目、境界線を引くことだと。境界線がないものは、それを一つの独立した意味のある”もの”として定義づけがないのと一緒で、言葉とは”境界線”であるんだと。深澤直人のデザイン論とも近いものがありますね。何か、いい気づきが得られた気がする、そんな森美術館でした。