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 広告学校の講義のテーマが、「言葉」でした。言葉、それが何かは、答えなんかないのですけど、自分の中でそれをどう思ってるかは、重要だと思います。

 
 小学校時代は本なんか全く読まず、ゲームまっしぐらだった私ですが、中学に入ってなんのはずみか、さくらももこのエッセイを読みまして。「エッセイ」っていうジャンルが何を指しているのかも知らずに読んでたんだけど、単純にわらける作品だったから、新刊を待ち遠しく思うほどあの頃ははまった。自分の通っていた中学校は何の因果か、「労作展」なる展覧会が秋口にあって、そこに向けて生徒は各々、夏休みを使って作品を作るわけです。作品は、必修教科のどこかのジャンルに属していて、それが”労作”と呼べるほど心血を注いだといえるものならOKなんですけど、かたや「悲愴」をすさまじいクオリティで弾きあげるやつ、かたや師範もびっくりのレベルで九成宮醴泉銘を書きあげるやつ、かたやオイラーの定理に挑み数学オリンピックに特別推薦されるやつ。変人の巣窟だったうえ、余ったエネルギーをそっちに使うやからが多くて、そんな感じになってました。そんな中、一番楽なのは、エッセイでしょう!と思ってエッセイ書いてましたね。だって、何書いてもいいんだもの。今思えばブログみたいなもんです。でもちゃんと入賞して特別展示されましたからね2年連続で!


 言葉って、自分が思うに(というかガラパゴスな中高大一貫教育の中で教わった内容に依るところが大きいんですけど)、「分ける」ことだと思っています。養老孟司氏がどっかで記していた内容で、


 「生き物を解剖する。切って切って、行くところまで行くと、これ以上は切っても意味がないというところにいく。意味がないとはどういうことか。これ以上切ると自分以外にそのメスの入れ方をしたものは今までにいないという、定義できない肉の塊を切り出すことになるというとこのことである。”意味がない”とは、やっても仕方がないという意味ではなく、その切り方に対し、誰も定義づけしていないため、意味を持たないということである。」


 というのがあります、長いねw 存在自体は言葉による定義がなされる前からあるとしても、それに対し自覚的になるためには名をつける必要があると。ここでいう言葉とは、『他の事象から、ある特定の事象を切り出すための、”境界線”である』と言えるでしょう。虹は何色?という有名なたとえ話も、そこにその色が存在しているのは瞳孔がとらえていても、その色に自覚的になるには名付け、つまり隣あった別の色とその色の境界線を引く必要があるということになります。アメリカ人は甲虫はざっくり「beetle」でしかなくて、カブトムシも黄金虫も、あんまり気にしないとか言ってたのを覚えてますし(もちろん人によるんだろうけど)、それは決して、カブトムシと黄金虫を並べられて、視覚的に違いが見つけられないということではないんだよ。


 福沢諭吉がEducationを「教育」と初めて訳すまでは、今日本語で「教育」と呼ばれているアレは、概念として自覚されていなかったわけとか。概念こそ実態を伴わないため、言葉による定義が命というか、その名前自体がすなわち存在だったりします。実態の有無にかかわらず、言葉に定義することで、他者との共通認識を持つことができ、そこからコミュニケーションが生まれるようになったっつーのは、今日の講義でも言っていたんだけど、言葉のもう一つの大きな役割は、定義することによる再現性だと思うわけです。なんでそんなに再現性が大事かっつーと、おそらく、「発想」とか「アイデア」っていうものは、「自分の頭の中にすでに入っている情報を引っ張りだすこと」だからなんですわこれ。どうやったら金脈を頭の中から引っ張り出すかというと、やっぱり「境界線」なんだと思う。よく企画書書いてるときに、コンセプトワード一発で視界が一気に明るくなるがごとく、こちらの意図が明瞭に伝わることがありますが、それこそ切り出し成功ってことなんだろう。言葉にして脳にしまっておくと、引っ張り出すのが楽だし、言葉同士の加工もしやすいのです。だから語彙は多いほうがいいと思う。


 というわけで、また支離滅裂になってきたねえw なにしろ、本をたくさん読むことと、言葉はノートに捕まえておくことが、オススメです。日本語はすごく細やかに事象を言葉で切り分けている言語だと思うので、その機微に触れられるような書を読んでいきたいと思う今日この頃。時間は作れ!作るしかないさ!w


解剖学教室へようこそ (ちくま文庫)

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