自分の幸せを見つけられる人


 巨人の木村拓也コーチが急逝された。自分がプロ野球を見るようになったときからずっと知っていた選手なので、死んだってことがなんだか不思議なわけで。多くのポジションを守れて、両打ちで、小技が利く感じの好きな選手だったし、きっと良いコーチになると勝手ながら思っていた矢先なので、なんだか不思議です。人の死は僕にとっていつも不思議で、悲しいとかまで思考が及ばないのは、本当に自分の生き方に強く深く影響を及ぼした人間をまだ失っていないからなのだと思うのですが、いまだに死ぬとはなんなのか、どうも分からない。多分どこかで生きているのだろうけどどうやらもう自分の人生には二度と登場しない人、と何も変わらないわけで。まだまだそこは幼いのだろうねえ。


 NPB(日本野球機構)が毎年、キャンプの終わりからオープン戦の間に、その年の新人選手を12球団全部一同に集めて研修をやるのですが、今年は木村コーチも講話をされました。その時のお話が、なんかいろいろ考えさせられる内容だったので、引用しておきましょう。


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高校時代は4番を打っていて、捕手でした。19年間プロ野球選手をやって、最後は2番・セカンドになった。そのいきさつを話そうと思います。
 
1990年のドラフトで、僕は指名されませんでした。当時は6位までに指名されなかった選手は、「ドラフト外」で自由競争でした。僕は高校通算で35本塁打打っていて、宮崎県のお山の大将で、ドラフトで自分の名前が出ないでショックでした。ドラフト外日本ハムに入団する時に、スカウトから「入ったら横一線だから。プロの世界は自分が頑張って結果を残せば、一軍に上がって大変な給料がもらえる」と言われました。
 
でも入ってみるとちょっと違っていた。新人のみなさんはキャンプを1か月やって、「これならやれるな」と思った人と、「すごい、ついていけないかも」と思った人がいるでしょう。僕はキャンプ初日にシートノックでボール回しをやった時に、「とんでもない所に来た」と思いました。プロのスピードについていけない。ドラフト外というのもなるほどな、これはすぐにやめて田舎に帰らないと、と思いました。
 
当時、開幕前に60人という支配下登録の枠がありました。僕は登録されなかった。新聞に任意引退選手と出て、故郷から「2か月でやめるのか」と電話がありました。今の育成選手は、二軍の試合に出られるし、シリウスやフューチャーズがある。僕の時には支配下からもれたら、試合に出られず、ひたすら練習。「何しにプロ野球に入ったんだろう」。今の育成は、野球をやるチャンスがある。どんどんアピールして頑張ってほしい。
 
2年目に、一軍にけが人が多く出ました。二軍の野手が一軍に呼ばれて、二軍監督から外野を守るよう言われました。試合に使ってもらえるならと外野手をやり、まず第一歩を踏み出しました。そしてファームで1番を打っていた選手が米国に野球留学し、他はけが人も多く「1番がいないから、お前が打て」とコーチに言われ、何て運に恵まれているんだろうと思いました。そして9月、一軍にけが人が多く、初めて一軍に上がりました。結局、2年目は3本ヒットを打ちました。
 
3年目は開幕一軍でしたが、ほとんどが守備要員でした。1か月ほどで二軍に落ちて、それ以降は一軍に上がらずでした。3年目のオフに転機がありました。9月末から12月末の4か月間、ハワイのウインターリーグに参加し、イチロー選手といっしょでした。1歳下のイチロー選手に衝撃を受けました。4か月間同じ部屋で、朝起きたらいない。朝からウエートトレーニングをしていたのです。このウインターリーグイチロー選手は首位打者を獲りました。自分はこんなんじゃだめだなと思い、イチロー選手が僕の野球人生を変えてくれた一人になり、感謝しています。
 
4年目は、1年間一軍にいましたが、守備要員でした。しかしやっと「野球選手になれたな」と思っていたのですが、広島にトレードになった。正直「何でおれが」と思いました。広島は当時、野村、江藤、前田、音、緒方、金本の名選手ぞろい……僕に入り込むすきはなかった。移籍1年目は数試合に出て7打数で安打なし。「これはクビになるな」と思い、「どうやったらここで生きていけるか」と考えました。一軍のレギュラーの中では、セカンドが確か34、35歳のベテランだったので、セカンドをやるしかないと練習するようになりました。
 
移籍2年目は、一軍を行ったり来たり。それまでは右打席でのみ打っていましたが、左投手の時には代打で出られるけれど、右投手だと代えられる。どうしたら代えられないようにできるか。左打席で右投手が打てるようになればと、スイッチヒッターに取り組みました。自分が生きていくためには必要だと。
 
スイッチヒッターになって、1つ気づいたことがあります。例えば右打者の時、右投手の外の真っ直ぐと左投手の外の真っ直ぐは同じではなく、角度が違う。スイッチヒッターは、練習は人の倍やらないといけないが、右打席の右投手のような、自分の体に近いところから来る球がなくなりました。球種が半分になったようなものです。打つのが一番難しいのですが、体に近いところから遠いところに逃げていく球がなくなった。それに気づいてからは打てるようになりました。プロに入って9年かかって、10年目に136試合フル出場しました。野球選手の平均寿命が8、9年で、自分がそこまで生き残れました。
 
今、みんなは希望にあふれて「レギュラーを獲って生き残ってやる」と思っているだろうが、必ず壁にぶつかる。そんな時、少し言葉で考えると、僕みたいに生き残れる。ざ折してあきらめるのか、そうでないのか、自分で考えないといけない。
 
そして34歳の時、トレードでジャイアンツに来ました。広島が若手選手への切り替えを図っていて、僕は出場機会が減りそうだったのですが、子供はまだ小さく、家のローンも残っている。「トレードに出してください」と球団にお願いしたのですが、決まったのが(戦力が充実している)ジャイアンツ。「出番を求めているのに、何でジャイアンツなんだろう」と思いましたが、入団してみると、けが人が続出してチャンスがもらえた。
 
最後にジャイアンツに入って、3連覇や日本一を経験し、勝つ喜びを知った。今までは自分の事だけを考えていました。プロ野球選手になると自分が成功するために、どうしても自分の事ばかり考えてしまう。しかし勝つ喜びはものすごくて、言葉では言い表せない。みなさんも、自分が活躍して優勝するんだという気持ちを持ってほしい。
 
自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティープレーヤー」、「何でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない。巨人の藤田宗一投手は、中継ぎ登板だけで自分と同じ歳までやっている。それで飯が食える、それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だった事がうまくいかない。それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか。


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 世の中的な成功の形は、なんとなく存在していて、そこに囚われるばかりその時その時の自分の有り様を肯定してあげられなくなったり、あるいは本当に自分がどうしたいのかすら分からなくなってしまったりする人もきっと多いだろうに、なんかこの実直さと感謝の念を忘れない態度は、羨ましいなと思いました。尊敬とか偉いとかそういうんじゃなくて、羨ましい。どんな苦境や理不尽にも心荒げる瞬間もあれど腐らず、自分の幸せの軸を流されて見失う事なく、自分が変わっていくことを感謝の念と共に楽しめる、羨ましいです。


 ご冥福を。