”生き直す”ことと足跡の煩わしさに関する仮説


 リセットボタンを押すときの、「あーあ押しちゃった!」っていうあの少しの後悔と吹っ切れた前向きさは独特なもので、人間、ポジションやタスクや他者評価を一回新地に戻すことはどこかで必要になることなんだと思う。日々厳密に綿密に望むようにチューニングしている人はそんな願望はよぎらないのかもしれないけど、全てをポイっとしたくなることって、これまた普遍的なんだと思うんだけどね。


 それを”生き直す”と置いてみて。


 マスコミはじめ、猫も杓子もソーシャルソーシャルって言ってる昨今だけども、ソーシャルって要するに「社会」ってことで、社会なんていう単語は日本だってずーっと使ってきたわけです。社会問題、社会派作品、社会学・・・ 辞書にはね、【生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与え合ったりしている人々のまとまり。また、その人々の相互関係】とある。まあだから元々さ、つながりとか関係性のことを言っていて。でもなんか日本人は社会に対してもっと公というか、個人の意志や願望とはちょっと距離の遠い”みんな”っていう印象を持っている気がします。【ソーシャルなんとか】っていう単語が示すとおり、やっぱなにか元来、社会性を備えていなかったものの社会バージョン、っていう意味で使うもんなんだな。


 で、話それちゃったけどね。生き直すっていうのは自分を取り巻く社会を一旦清算することだと思うのです。アメトーークの中学時代イケてなかった芸人とか見ていて思うのだけど、彼らかて、生き直しをしての今があるから過去を笑い話に出来る。大学に行ってキャラが変わった人、社会人になってキャラが変わった人、いろいろな生き直しがあると思うけど。で、ソーシャルメディアって足跡は、生き直しを制限するものっていう側面があると思うのです。今の小学生の子達は、ともすればそのクラスの友達と幸か不幸か、ずーっとキープインタッチ出来てしまう環境があるわけです。いじめられたり変なあだ名をつけられたら、僕とかの世代よりもはるかにそこからの脱出がムズかしかったりするのじゃないかなあ。キャラという十字架がソーシャルメディアで縛り付けられるという側面。ちなみにアカウント削除してもデータは残ったりしますからね。


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 佐藤雅彦氏の昨年の展覧会【これも自分と認めざるを得ない展】のことを思い出す。その人にまつわる”属性”とはその人本人の意思によって完全に規定されるものではなく、本人が望まなくともその本人から社会に対して漏れ出しているものである。ゆえに、社会がその属性を否定した場合、その属性においては本人が望むと望まないに限らず、【あなた】は【あなた】ではないということになる可能性すらあるという。

 
 展示の中に、【属性のゲート】という作品があって。認証カメラによってその人が【男性-女性】・【29歳未満-30歳以上】・【笑顔-無表情】という二択のどちらか当てはまると判断されたほうのゲートが開くものなんですけど、不思議なもので(これは佐藤氏本人も考察していることですが)、たかだか機械にある限られた情報を事務的に解析されているに過ぎないはずなのに、自分の思う自分と、機械に判別された自分が一致したときに、人はなぜか社会において自分の存在を許された気持ちになると。「お、おれちゃんと男が開いたわ〜」ってちょっとほっとした自分を僕も思い出します。




 ソーシャルメディアに漏れ出た、自分を形作る情報の数々を、社会が受け取り、その人の【その人である定義】をある意味一方的に判別する。それが本人の望む形に”許される”場合と、本人の望まない形に判別されるされることが、あるんだろうなあって。後者は、生き直したいところだけど、果たしてそれがしやすい風な世の中になっていっているかと思うと、そこから逆にどんどん行っている気が個人的にはします。


 記録に残らなかったり、人の心や記憶にのみ依拠したものの方が、都合がよいこともあるのね。”忘れる”って大事なこと。今度、【忘れることの価値】についてなにか企画を考えて見ることとします。あとソーシャルメディアの生き辛さも継続考察ね。


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Oops! -Steps Ahead-

 昨日、大学のサークルの同期と酒飲んでて出た曲。久々になんか哀しいことに若干懐かしいというか、ほっとした気持ちわるい自分w そうですこんな曲ばっかりやっていた大学4年間でした。これも、自分と認めざるを得ない過去。ウケるはマジで。