技術守破離論


 剣道部だったときに、父から借りた相当ふるい技能書に書いてあったのを見たのがはじめてっていう、「守破離」という言葉。


【守】:師の教えを忠実に守り、自分の中に定石を沈着させる。
【破】:定石の外側にある、新たなやり方を求めて自分なりに試行錯誤を繰り返す。
【離】:自分なりのやり方や流儀を打ちたて、師の教えから離れて融通無碍の境地に至る


 ・・・っていう感じの意味で、その書き物の中でこれを用いている意味としては、「だから最初は変に奇異をてらったりせずに、定石を反復して体の深くまで落とし込みましょう」というところでした。


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 Webデザイナーの中村勇吾氏が、東京企画構想学舎の講演で言っていた言葉で、「Webでものを作るうえでの技術は、技術の習熟や高度化が目的なのではなく、”それらの技術のことを意識しなくなるため”に高めるものです」といってたのと頭ん中でぴーんとつながって。【技術は、技術から解脱するために高める】という、つまり、”離”のために”守”があるのよと。コードや言語のことでいちいち脳が止まってしまっていては、本当に新しい自分が思い描くものはおそらくそのとおりは作れなくて、「まるで鼻歌を歌うがごとく」技術が操れてはじめて作れるものがあると。自分の中で新しい技術を習得したり、スキルが高まっていくのってそれ自体が気持ちよくて達成感や充実感のあることなのですが、ふと、何がしたくてそれをしているの?という立ち止まりはとても重要ですよという文脈でおっしゃっていたと記憶しています。


 編集者の後藤繁雄氏も、自分の編集という企画術について「自転車に乗るようなもの」とおっしゃっていたのも繋がる。「誰も自転車の乗り方を、理屈や原理で覚えて習熟するものはいなくて、体が覚えているから乗れている。企画も一緒で、自分の脳の乗り方が感覚的につかめると、本当に良いものを生み出すスタートラインに立てる」というお言葉。完全に「離」の境地だと思う。


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 音楽も一緒でさ。コード理論を覚えるのは「演奏中にコードを考えながら弾く」という状態から解脱するためであるし、基礎連をして指がべらぼうに早く回るようにするのは「どんなに早いフレーズでもその早さにとらわれて無機質になる」のではなくそこに意志を乗せられるように、難しいという気持ちから解脱するためにやるのですし。だからどんなにテクニックが上手でも、「そのテクニックを使って何がしたいのか?」が分かっていない人には、その技術は目的になってしまうのだと、大学生のとき思っていた気がします(そんなこと心配するほどテクニックなかったくせにww)


 結局、どうしたいの?? 何が実現したいのか?? 自分はどうなりたいのか?? 最近、就職活動生と話す機会が多いので、自分も感化されているのかそんなことを考えます。まずは「守」が大事とはいえ、どんな「離」に持って行きたいのかを何となく見据えるのは大切なこと。でもこう考えられるようになったのは、なんとなく「破」に近づいてきているということなのかも知れないですね。何が分からないのかが、分かる状態へ、まず。


 音楽も企画も、融通無碍の境地に行ける日を目指して、はー精進精進!


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 本日の一曲:



 【If...】 上原ひろみ


 ”守”の塊だった大学一年生のときにほとんど完全コピーした曲。いま思えば、自分はもっと【守】の期間が必要だったんじゃないかと思います。ちゃんとコピーすること、先日の偉業を模倣すること、そこのアウトプットが足りないままに、なんとなくアドリブを取れちゃったりそれっぽく聞こえるように弾けるようになってしまったのが、最大の反省かと。仕事も、そうならないように気をつけよう。【守】の期間は、その期間に身をおいているうちは、つまらなくて忍耐を求められるもので、そこでいかにふんばれるか。ウサギと亀の、亀ってそういうことですね。