未映子's エクスカージョンと「嬉型」


 NHKトップランナー川上未映子」の巻。大体一ヶ月くらい前に番組観覧に行けちゃって、それはもう引き運の強い友人のゴッドハンドならぬゴッドエンターキーでもって当選したわけで、それまではわきっちょの代々木公園を通り抜けるくらいの話でしかなかったNHKの中に潜入してきた、それが一ヶ月前。番組内容は口止めされていた故、口外すわけにいくまいとそこんところ妙に律儀に守り抜き、やっと放送に相成りましたということで、収録自体はあれの×4ほどの尺だったということからつくづく「編集」というのは因果でモッタイナイ作業だなと感じつつも削る事こそ物事を玉成させる、最も創作的な行為やもしれないとも思うのですが、なんかその削った内容からも思ったことを忘れないようにメモとかしてみよう。


 NHKはYoutubeにとってもうるさいので本編は上がっておりませんで、2年前だけど、結構似たことをうかがい知れる以下を。






 冒頭、彼女の言葉帳がちらと写っていてそれがもしかしたら彼女の秘伝の壷なのではないかと勝手に思っていたりもして。トップランナーでもゆうてたんですけど、「絶対に隣り合うはずの無い言葉を隣合わせると気持ちいいんです。この”世界クッキー”という題も、まさか”世界”も”クッキー”もお互いが隣り合うことはないだろうと思っていたはずのところを私の手によって隣り合わせることが、なんか気持ちよくないですか?」って。この人は、言葉や文章の「表意性」以外のところにとても重きを見出して言葉をつむいでいらっしゃるというか、”この言葉とこの言葉を隣り合わせたらアカンなんて誰が決めたんや??”みたいな、人が当たり前だと思って改めて掘り起こして考えようともしない事柄やある事柄に対する見方を、言葉の隣り合わせ・くっつけによって白日の下に丸裸にしてやろうというような感じを受ける。仕事術発想術系のメソッドで「エクスカージョン」っていうのがあって。直接的には無関係な複数の単語や事象を、あるランダム性・カオス状況を作り上げることによって強制的にくっつけさせて、そこから、積み上げ型思考法では到達し得ないアイデアの断片を生成するっつーやり方。「キットカット郵政民営化」から、サクラ咲くキャンペーンが生まれました、みたいな話です。彼女はそれを、自分の脳みその中のセンスによってちゃんと取捨選択しながらやってる気がするのね。これは美しいとか、この字面は色で言ったら紺色とか。そこはね、多分天賦なんじゃないかね。


 いじめが題材の小説「ヘヴン」のゲラ作業で彼女が引っかかった、「いじめられる→ストレスがたまる→胃が痛くなる」のような、だってそれはそういうもんになっているじゃんという、彼女の言い方でいうところの『世の中のテッパン』に、知らず知らずのうちに自分が乗っかってしまっていることにきっとすごく恐怖心とか自分への嫌悪があるのではなかろうか。「世間が書かせてしまっている箇所」と彼女は言っているんだけど。そんな世間のテッパンを崩すための武器が彼女の場合は言葉でしたという。結局、「ヘヴン」の中で、ストレスの臨界を彼女は「喘息の発作」で表現することにしたわけで。これは別にエクスカージョンではなくてもっと理性的な、かつ理屈っぽい「それってほんとにそうなん?」っていう、哲学的な根本的な問いを繰り返すクセから出てきているんだと思うけど。


 あと、これはちょっとカットされかかっていたけど、トップランナーの収録の終わりの方に彼女が言ってた、小説を書き続けるわけ。「自分の手によって世の中に何かを残したい。ちょっとしたことでいいから、自分がいることによるプラスを足したい」と。これ、すごく好きな考え方なのね。IDEOのCEOのティム・ブラウンも自分がデザインシンキングにのっとって働くわけを、「自分がいない世界より、自分がいる世界の方がちょっとでもハッピーになったら幸せなことだろ?」といってて、それとそんなに遠くない感覚やと思う。それが彼女の場合は、「言葉」であって、もっと言ってしまえば「言葉によって世の中の事柄の真理や、事柄同士の関係性を、いっぺんスッキリゼロから暴きなおすことによって、人々の価値観を揺らして、より明瞭に生きられるようにしてあげたい」ってことなんだと思う。いじめって何で悪いのかちゃんと説明できんのか?なぜ自殺はアカンことなのか?人は殺したらアカンって誰が決めたんか?そういうことを子供に突っかかれた時に、「そういうもんだからや」以外の答えがあなたには用意できるか。そこんとこの物事の見方のヒントを、小説という非現実に引き込むことで提供していくことが、彼女にとっての世の中へのプラスなんでしょう。だから彼女は、「自分が出来ないことにしか極論、興味はないんです」とのこと。かっこいいね。


 「小説を書くのはすごい好きやけど、全然全く微塵も楽しくない」っていうのも、おこがましくもなんか分かる気がする。楽しいって線で、かたや嬉しいって点だなとうちは常々思っていて、生きる重きを「楽しい」に置く人と「嬉しい」に置く人と、ざっくり別れる気もするんよね。この人はきっと、その瞬間の嬉しいが欲しいから、そのための小説を書くことが好きなんだろうけど、その状態そのものが彼女にとってFanかというと、全くそうではないということ。すごく分かる。うちもバンドはそうやった。ライブのあの瞬間のためだけ。だから音楽は好きやというけれど、楽しいというのと違う。この人も、多分自分もそうだけど、完全に「嬉型」の人間。「楽型」の人が羨ましい。


 ちなみに。実物の方がおキレイ。とても気さくで気遣いの出来る人だけど、それはきっと「そうしとかないとね」という自制心から来ている感じで、本当のこの人のコアにはその行動は登録されていないんやろうなあという気もしたけど、それはそれ、どうでもよい。小説読みます。


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本日の一枚:

サングローズ

サングローズ


 この人も、きっとうちらの価値観を揺らしたかったんだと思う。ほとばしる情念と、翻しの愛。